大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 昭和48年(ワ)386号 判決

原告

松浦恵美子

右訴訟代理人

池田和司

外三名

被告

前田彰

右訴訟代理人

吉本範彦

外一名

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

被告は原告に対し金二九〇四万七九七八円及びこれに対する昭和四七年一〇月七日より完済まで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  被告は医師で、前田外科病院々長である。

2  原告は、倉敷中央高等学校卒業後、同校専攻科において、看護婦としての各種専門知識及び技術を修得し、昭和四五年三月、右専攻科を卒業した看護婦の有資格者である。

3  原告は、昭和四四年八月二七日、前田外科病院において、被告の診察を受け、慢性虫垂炎であると診断され、同年九月三〇日、同病院に入院し、その日に、被告の執刃により虫垂切除の手術を受けた。

4  原、被告間には、原告が被告に対し、原告の虫垂切除の手術の事務処理を委託する内容の準委任契約が存在するのであるから、被告は委任の本旨に従い善良なる管理者の注意を以て委任事務を処理する義務があるところ、被告は、原告に虫垂切除の手術を施すに際し右委任義務に反し、腰椎麻酔に関する不完全な事務処理をなした。すなわち、

(一) 外科医が虫垂切除の手術のため必要な腰椎麻酔を施術するには、患者の状態に応じて、その安全を図るため最も適当な椎間を選択して注射針を穿刺すべきであるにかかわらず、被告は、原告に対する腰椎麻酔に当り、注射針を穿刺すべき箇所として不適当な第四、第五腰椎間を決定し、その選択を誤つた。

(二) 注射針を穿刺した後、脊髄液を逆流滴下させ、かつ、注射針を三六〇度回転し脊髄液の均等注出を観察し、注射針が適正に設置されているか否か確認すべきであるにかかわらず、これを怠り、注射針を不適正に設置したことにより、注射針によつて馬尾神経根を損傷させた。このため、原告は左足親指にかけて電撃痛を感じ、足が震え、激痛のため悲鳴をあげた。

(三) 注射液の注入速度は、注射液の濃度に従い吸収に適応する如く加減すべきであるにかかわらず、被告は速度の加減を無視して無雑作かつ杜撰に注射液を注入した。

(四) 被告は、以上のとおり不完全な腰椎麻酔の施術によつて原告の馬尾神経根を損傷し、麻酔薬を右神経叢付近に滞溜せしめ、右部位の癒着等によつて、原告に対し、後記のとおり坐骨神経痛その他の身体障害を負わせたのであるから、債務不履行による損害賠償責任がある。

5  仮に、被告の施術した腰椎麻酔が不完全履行ではないとしても、被告には以下のとおりの過失がある。すなわち、医師が虫垂切除の手術のため、腰椎麻酔を施術する場合には、患者の状態に応じてその安全を図るため最も適当な椎間を選択してて注射針を穿刺、かつ、注射針を適正に設置すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、漫然として前記のとおり不適当な椎間を選択して注射針を穿刺し、かつ、注射針を不適正に設置した過失により注射針によつて原告の馬尾神経根を損傷させ、麻酔薬を右神経叢附近に滞溜させ、原告に対し、後記のとおり坐骨神経痛その他の身体障害を負わせたのであるから、不法行為に因る損害賠償責任がある。

6  虫垂切除の手術後の原告の症状及び身体障害は以下のとおりである。

(一) 前記のとおり腰椎麻酔の際に原告が受けた左足の痛みと痺れは手術後一週間経つた退院時にも消失せず、又、腰痛も手術後半月経つても耐えがたい状態であつたので、前田外科病院に通院して治療を受けたが、右症状は治まらなかつた。

(二) そして、昭和四四年一二月三〇日ごろから左坐骨神経痛が悪くなり、翌四五年一月一五日ごろには腰椎後彎をきたし腰痛が激しくなつたので、同年二月初めごろから前田外科病院に通院して治療を受け、同年三月九日、倉敷中央病院で診察を受け、根性坐骨神経痛であると診断され、倉敷第一病院に三週間入院し治療を受け、同年四月八日から総社市所在の矯正療術院に通院し二カ月間治療を受けたが、いずれも、その効果がなかつた。

(三) 原告は、そのころから、起床時、腰部に激痛を感じ、ひきつけが起きるようになり、起床も困難な状態となつた。そこで、同年六月一二日上京し、今井治療院で一カ月間鍼療法の治療を受けたが、多少、痛みが軽くなつたものの、症状に回復の兆はみられなかつた。原告は、その後も、慶応義塾大学病院で診察を受け、倉敷市内で療養生活を送つたりしていたが同年八月ごろから鎌倉市内に転居し、再び鍼療法を受けているが、依然、症状に変化はなく、起床も困難で安静を必要とする状態であつて、そのため、労働能力を一〇〇パーセント喪失し、しかも、この状態は現在、ほぼ固定し、到底、回復の見込みがない。

7  原告の損害は以下のとおりである。

(一) 治療費金八五万円

原告は、前記入、通院治療により、治療費金八五万円を支出し、同額の損害を蒙つた。

(二) 逸失利益金二〇九九万一二二五円

原告は、前記のとおり、生涯、その労働能力を一〇〇パーセント喪失したのであるが、当時二〇歳であつて、二〇歳の女子の月平均給与は昭和四八年賃金センサス第一巻第二表の産業計、企業規模計、学歴計の年令別平均給与額を1.16倍した金七万三四〇〇円が相当である。原告が六七歳まで就労可能とみると、原告の残存就労可能年数は四七年である。その間の原告の逸失利益を、ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して計算すると、金7万3400×12×23.832(四七年間に対応するホフマン係数)=金2099万1225円となる。

(三) 慰藉料金七二〇万六七五三円

原告は、年若い独身女性であつて、看護婦として将来大いに活躍すべく希望を抱いていたものであるが、被告の医療過誤によつて、身体障害者となり労働能力を一〇〇パーセント喪失し、廃人同様の生活を強いられている。看護婦としての業務は勿論のこと結婚生活すら不可能となつた原告の精神的苦痛は筆舌に尽しかたいものがあり、これを慰藉するには金七二〇万六七五三円が相当である。

8  原告は、被告に対し、昭和四七年九月二六日到達の内容証明郵便で、請求の趣旨記載の金員を右郵便到達後一〇日以内に支払うことを催告した。しかるに、被告は、右支払をしないので、原告は、被告に対し、主位的には債務不履行、予備的には不法行為による損害金二九〇四万七九七八円及びこれに対する昭和四七年一〇月七日より完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二、請求原因に対する認否〈省略〉

三、被告の主張〈省略〉

第三  証拠〈省略〉

理由

一被告が医師で前田外科病院の院長である事実(請求原因1項)、原告が昭和四四年八月二七日右病院において被告の診察を受け、慢性虫垂炎であると診断され、同年九月三〇日、同病院に入院し、その日に、被告の執刀により虫垂切除の手術を受けた事実(同3項)、被告が原告に対し右手術のため腰椎麻酔を施術た事実(同4項の一部)、原告が昭和四五年二月一七日より右病院に通院して、腰痛を訴え被告による治療を受けた事実(被告の主張4項の(一)の前半)及びいずれも一般論としてではあるが、注射針の設置が適正であることの確認方法としては、穿刺後、ルンバール針のマンドリンを抜くと脊髄液が逆流滴下してくるので、この量及び速度により、針先が完全に髄液腔内に達していることを知ることができる事実(被告の主張1項の(二)の(3))、腰椎麻酔の副作用として、まず、考えられることが、体位調節を誤り、頭部を下げすぎた場合、高位脊麻を起し、血圧下降や呼吸抑制をみることがある事実(同2項の(一))はいずれも当事者間に争いがない。

二そこで、被告が原告に施術した腰椎麻酔につき 原告の主張するような医療過誤(主位的には債務不履行、予備的には不法行為)が存するか否かを判断する。いずれも、〈証拠〉総合すると、以下の事実を認定することができる。すなわち、

1  被告は、麻酔薬として比較的多用されている帝国化学産業株式会社製の高比重ネオ・ペルミカンSを使用した。

2  腹部の手術のための腰椎麻酔は、一般に高位脊麻による副作用の危険を避け、比較的穿刺し易い第四、第五腰椎間を選んで注射針を穿刺して施術することが多いが、被告も原告の第四、第五腰椎間を選び、ルンバール針の特に小児用の細いものを使用し、原告を手術台上に側位に横たえ、両脚をかかえ込むようにして脊柱を強く屈曲させた姿勢をとらせ、針先が完全に髄液腔内に達するよう、まず、注射針のみを所定の角度で穿刺して設置した。

3  つぎに、被告は前記のとおりの注射針の設置が適正であることの確認方法を行ない、設置が適正であることを確認した。

4  そして、被告は右のとおり設置した注射針にネオ・ペルカミンS二ccを入れた注射筒を接合しこれを原告の第四、第五腰椎間から髄液腔内に通常の速度で注入した。

5  原告は、右施術の過程で、左足親指にかけて電撃痛を感じた。

6  髄液腔内には、脳と連続した脊髄が存するが、これは、人の場合には第一、第二腰椎付近までしか達せず、そこから下位の椎間から脊椎外に出る神経根は、脊髄から前根及び後根として支分した後髄液腔内を馬尾様を呈して各椎間孔に至つており、脊椎外で、前根と後根が交わつて前枝と後枝に分れた前枝が神経叢を形成し、従つて、腰椎麻酔の施術部位である第四、第五椎間付近の髄液腔内は、右の馬尾様の神経根が脊髄液内に浮遊する状態で存する(この事実は、解剖学上明らかである。)。このため、腰椎麻酔のため注射針を穿刺した場合に、施術の巧拙とはかかわりなく、時に、髄液腔内に達した針の先端が右神経根に触れることがある。その場合には、その神経根の支配領域に電撃痛が生じることがあり、前記認定の原告の感じた電撃痛は、こうして生じたもである。しかしながら、注射針の先端の形状からして、注射針の先端が右神経根に触れた程度では、注射針が神経根を損傷する可能性は極めて低く、仮にこれを損傷すれば、それが前根である場合には運動麻痺、後根である場合には知覚麻痺が生じ(前根、後根による麻痺の区分は解剖学上明らかである。)、このような状態は、施術者に容易に感知できる。また、神経叢に麻酔薬を注入するというようなことは、神経叢が脊椎外に存するためにまず起りえないが、仮に起ると麻酔薬は髄液腔内に注入されないから、麻酔効果は発揮されない。

7  更に、右同様の目的の穿刺では注射針が椎間板を損傷する可能性は、より低く、しかも穿刺針による椎間板の損傷は、ただちには、椎間板ヘルニア、椎間板変形の原因とはなり得ない。

8  原告の虫垂切除の手術中には、原告の下肢に運動麻痺、知覚麻痺が生じたことは、麻酔効果は腹部に発揮し、手術は目的を達して終了した。

9  原告が前記のとおり、昭和四五年二月一七日より前田外科病院に通院し、被告の治療を受けた際、すでに、X線撮影による検査で原告の第四、第五腰側彎の所見があつた。

10  横浜市立大学病院整形外科永田覚三医師は、原告の腰痛並びに左下肢の痺れ感及び痛みを主訴とする自覚症状、腰椎の軽度左側彎の他覚症状、ラセーグ氏徴候、左下肢外側の痛覚及び知覚鈍麻、いずれもX線撮影検査結果による原告の第四、第五腰椎間及び第五腰椎、第一仙椎間の椎間板狭少化、並びに第四、第五腰椎間の異常可能性の所見により、昭和五一年七月一七日現在の原告の前記症状を主訴とする現症を、椎間板ヘルニアによるものであつて、それも、急性期の症状ではなく、慢性期の症状であり、腰椎椎間板変性症との見方もできると診断した。

証人鶴見寛治の証言中の右認定に反する部分は、必ずしも解剖学上の用語を厳密な定義に従つた表現を用いてなされたものとも考えられず、右認定を左右するに足りないし、原、被告各本人尋問の結果中多少とも右認定に反する供述部分が存在するけれども、いずれも、表現を誇張し、意見あるいは推測に亘るもの等であつて、右認定を左右するに足りるものではないし、他に原告主張事実を認めるに足りる的確な証拠はない。

三以上認定した事実からすれば、被告が原告の虫垂切除の手術のため施術した腰椎麻酔の注射針穿刺の際、注射針の先端が原告の神経根に触れ、原告に対し左足親指にかけて電撃痛を与えたのは、一般に、腹部手術のための腰椎麻酔施術に際し、施術の方法如何にかかわりなく、ときに生じることのある不可避的な現象であつて、これを医療の過誤であるとすることは到底できないし、腰痛並びに左下肢の痺れ感及び痛みを主訴とする原告の症状は、第四、第五腰椎間及び第五腰椎、第一仙椎間の椎間板ヘルニア乃至椎間板変性によるものであつて、前記のとおり注射針の先端が原告の神経根に触れ、原告の左足親指にかけて電撃痛を与えたこととは全く関係がなく、しかもこの椎間板ヘルニア乃至椎間板変性症が被告の原告に対する腰椎麻酔を原因とするものとも、到底、なしがたい。

従つて、被告の原告に対する腰椎麻酔が医療過誤であるとして、被告に原告に対する債務不履行あるいは不法行為による責任があるものとは認め雑い。

四以上のとおりであつて、原告の本訴請求は、爾余の争点につき判断するまでもなく、理由がないので、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(高瀬秀雄 江田五月 清水篤)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例